能楽ビギナーズ座|宝生流能楽師 登坂 武雄

能楽ビギナーズ座

文:草木張月(くさきはりつき)

多彩な表情を見せる「能面」

 ひとのことを「能面のような顔」と例えると、「無表情で喜怒哀楽を見せない」、という意味でつかうことが多い。あまりいい意味ではないから言われた方はちょっとショックだ。

 確かに能面は独特の表情をもっている。一つの面でありながら、喜び悲しみ辛さ恨みを、舞と共に観客に見せる。実に多彩な表情がある。

 能では、面を「おもて」と呼び、「かぶる」のではなく「つける」と言う。主役を演じるシテは、面をかけた瞬間から、その役に魂から一体となる。面を上にあげて喜びを表わし、うつむくことで嘆きを表わす。僅かな傾きで、感情の奥深さを表現する。

 シテが演じる多くは、精霊・亡霊・化身とこの世にいない者だ。この世とあの世を行き来する者を美しく幻想的に表現する。シテは、面と共に魂からその役になりきる。だから能独自の幽玄の美しさが表現されるのである。

平成23年10月9日

表情をくずさない「直面」

 能の配役には、主役を演じるシテ、脇役である「ワキ」、ワキにつく「ワキツレ」がいる。他に、音楽担当の囃子方とバックコーラスの地謡のグループで能は構成される。

 面をかけるのはシテだ。シテの面に関しては前述したが、能にはもう一つ「直面(しためん)」という能独自の演出がある。

 直面は素顔のことで、ワキ、ワキツレがこれにあたる。つまり能では、面をかぶるのはシテのみで、他はすべて素顔ということになる。ところがこの直面のワキは、いっさい表情をくずすことなく、淡々とせりふをかたる。歌舞伎のように決して大げさな表情をしたり、顔を変えたりしない。もちろん化粧もない。これも能のルールという。ワキは、すべて生身の男性という設定で、直面も能面の一つとしている。人の素顔から喜怒哀楽を徹底的に排除し、生きた人間を演じる。矛盾した演出にかんじるが、だからこそ出来上がる舞台劇でもあるのが能だ。演出への追及とこだわりが、能を舞台芸から具体芸術までに押し上げたといえる。

平成23年10月9日

足元の美学

 能を一度でも見ると、あの独特の歩き方が印象に残る。踵をつけ、つま先をあげたすり足は、「運び」(はこび)と呼ばれ「歩行の芸術」と賛美されている。

人が歩く様と違い、上半身を動かさず、舞台をすーっすーっと移動する。

純白の足袋は形を崩さず、まるで固い靴を履いているかのように見える。

能は、主人公の感情や時の流れを「運び」でも表現する。怒りは力強く早く、嘆きは弱々しく、そして、幽界の者を演じるときは、生のエネルギーを一切断ち切るかのように舞台をゆく。どのような所作がいちばん美しいのか、先人たちの美学が舞台で表現されていく。

「運び」もそのひとつだ。

人の動きをどこまでも洗練させ、歩みさえも芸術に昇華させてしまう能に、日本人の美へのこだわりを感じている。

平成23年6月29日

観能事始め

 平成23年1月9日月並能、年初めの能楽堂に行く。

 この日の舞台はいつもと趣が違う。橋掛かり(揚げ幕から舞台までの約7間の廊下)から舞台までぐるりと注連縄が張られている。年初めの恒例だ。

 私は初めて能の舞台を見たとき、ほかのお芝居の舞台や音楽ステージにはない神々しさをかんじたが、注連縄の張られた舞台は聖域。ますます厳かな雰囲気だ。

 神への奉納の舞を観ていると、日本人が大事にしてきた宗教観、人生観がいきづいていると感じる。

 死者が語る悲哀は、時代が変わっても胸の奥に響く。何百年も前に描かれた人間ドラマに共鳴するのは、人間の本質を描いているからだ。

 能は難しい、わかりにくいと言われるけれど、何百年もの間、形を変えずにいるものは、それなりの魅力がある。それは何か。能から学んだことを、これから少しずつ、つぶやいていこうと思う。

平成23年3月16日

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